天寶會(てんぽうかい)


このページはすべて下記サイトからの引用です。
www.tenpokai.org

天宝会/祝福家庭障害児者親の会

 「天宝会」は文亨進様がフルーツバスケットにつけてくださった名前です。
亨進様はFBコリアに「フルーツバスケットという名は英語圏から見るとよくない意味もあるので変えたらいいですね」とおっしゃられたので「是非、新しい名前を命名していただけますか」とお願いしましたところ、このたび揮毫をしてくださいました。

 ć—ĽćœŹă§ăŻ「テンポウカイ」、韓国では「チョン(夊)ボ(宝)フェ(会)」と呼びます。天の宝物として真の愛で包んでくださった、文亨進様・李妍雅様ご夫妻の深い心情にあふれた言葉をいただき本当に感謝いたします。

文亨進様・李妍雅様のみ言より

 ◎神様は私達各自に対して特別な計画があります。それは人生の祝福と連結されています。しかし、残念な事にそれを悟れない場合があります。多くの人々は人生に対するありがたみを知りません。それで、愛する人々に傷を与えたりもします。

 ◎特に天宝会の子供達を見る時、私達の人生の尊さを振り返る事ができます。当然だと思っていた事に対して感謝できる心を学びます。そんな貴重な悟りを与えるのは誰でもできる事ではありません。

 ◎皆さんの子供達は他の人に対して天の宝石を発見させる様にします。皆さんは天の宝石に侍るのです。それで「天宝会」という名前をつける事になりました。

 ◎母親の立場で健康でない子供を毎日面倒見るのは、難しいし大変だと思います。しかし皆さんの子女達は、とても特別な能力を持っています。皆さんがそれを悟れないとしてもそれは事実です。なぜなら、神様はすでに能力を下さったからです。

 ◎天宝会の子供達は家族と周りの人に、人生に対して感謝できる心を持たせるでしょう。特に、兄弟達はもっと成熟した心を持つでしょう。勿論、否定的な観点で人生が不公平だと考えることもできます。しかし、私達はもっと肯定的な心を選択することができます。

 ◎私達に与えられた生と命が当然ではないと言う事を悟らなければなりません。私もヨンジン兄さんの昇華を通してそれを発見できたので、宗教の道を行く様になりました。私の人生が変わったのです。

 ◎そんな意味で天宝会の子供達は、特別なメッセージを伝える牧師だと思います。牧師の使命は人生の尊さを知らせる事です。事実、どんな牧師もこの使命を簡単に成就できません。人生の尊さを悟らせるというのは、創造主の神様を証す ることです。天宝会の子供達は、人々に天の宝を発見させます。言い換えれば、見えない牧会をしているのです。

 ◎健康じゃない(障害児)子供達を見ながら、決してその子供達が永遠にそのように生きるとは思いません。神様が天宝 会の子供達に下さった特別な意味が地上だけでなく、天上でも輝くことでしょう。

 ***

 ćŽĺŚé›…ć§˜ăŽăżč¨€

 ďź’ďźďź‘ďźĺš´ďź‘ďź‘ćœˆďź’ďź—ć—Ľ、韓国ソウルにおいて、韓国天寶会(チョンボヘ)の定期総会が開かれました。総会議事に続いて、第二部に特別ゲストとしてお迎えした李妍雅(ヨナ)様のみ言をご紹介します。

 ĺ¤ŠĺŽäźšăŽäźšĺ“ĄăŽçš†ă•ă‚“、こんにちは。食口の皆さん、こんにちは。資格もない私がこのようにこの場に立つようになり、本当に申し訳なく、そして栄光に思います。今日は天気が、雨がたくさん降って、ここに来るのも大変だったでしょう。でも、このように皆さんが集まって、天宝会の会合を開けるようになり、本当に嬉しく思います。

社団法人・多文化センターで、江利川会長が天宝会の総会が今度あるので来てくれませんかと言われて、本当はとても躊躇しました。事実、私は本当に資格がないと思ったのですが…。韓国天宝会の初代会長の西海さんが、天宝会の総会で、天宝会の会員の兄弟たちをどのように育てればいいかについて、助言してくださいませんかと言われたので、勇気を出してやってきました。

私がこれからお話しする多くは、客観的なことというよりは、主観的なことが多くあります。私がどのように経験し、どのように感じたかという。ご存じと思いますが、私の弟は知的障害があります。約5、6歳の知的障害を持っています。そのため、その弟の姉の立場で、兄弟の立場で、食口の皆さんに少しでも役立てばと思います。

一般的に、私は障害児童という表現を使いますが、その表現が少し気に入らないとか、他にもっといい表現があれば、推薦してくれませんか。(反応なし)それでは、いったんそのように表現することにします。

 éšœĺŽłĺ…çŤĽă‚’ă‚‚ă¤ĺ…„ĺźŸăŻ、とても早く成熟するように思います。また、心情が非常に深く、他の人に対する配慮が身についています。なぜかというと、そんな兄弟がいるので、面倒を見てあげないといけないということが強い、何というか、責任感が強く、独立性も非常に強い。なぜかというと、両親が自分にしてくれることは多くないということを知っているので、幼い時から自分のことは自分がしなければならないということが強いので、独立性が非常に強いのです。それから、いつか両親が亡くなれば、私がこの障害をもった兄弟の責任をもたなければならないかもしれないという思いがあるので、責任性が非常に強いのです。

外にはそのように表出するのですが、内ではまだ幼く、まだ育つ過程なので、そのように忍耐し、外見では非常に責任感があり、独立性があるように見えるので、「ああ、この子は早熟だ」と人々は言いますが、内では愛を受けたいという欲望が非常に強いのです、こんな子供たちは。私もそうでした。

それで、ある面では、私が受けるべき愛なのに、兄弟が障害があるという理由だけで両親の愛を全部取ってしまう、そのように考えるので、ある面では嫉妬心もあり、ある面では憎しみもあり、あなたのために私の家庭はこんなに苦しいんだという憎しみもあり。そうでありながら、同じ瞬間に、与えてあげなければならないし、私が持っている物を分けてあげないといけないし、そんな心…。このように二種類の、融和されない二つの心が常に衝突します、自分の心の中で。幼い年で、未成年者の立場でそれに耐えるのは、本当に大変です。

人々は私に愛しなさいというけれど、私ぎ心ぎ中き(障害を持つ)兄弟に対する憎しみがあるので、それが大きな罪意識として現われ、それが表出できない、そんな形態をもつようになるように思います。私が振り返ってみると。

そんな兄弟たちに、両親がやってあげられることは、実際、多くあります。私が今日、兄弟たちが感じること、どう育てれば良いのか、ゆっくり考えてみながら、両親がやってあげられることを5つにまとめてみました。

 çŹŹä¸€ăŻ、両親が障害児童について、天宝会の会員の子供に対して、両親のせいにしないことが非常に重要だと思います。

 çˆśćŻăŸăĄăŻă‚ˆăă“ă‚“ăŞă“ă¨ă‚’č¨€ă†ă˜ă‚ƒăŞă„ă§ă™ă‹。子供がこんなに障害をもって生まれたのは私のカルマ(漭)だ、私ぎ漭堹だ、こんな話をよくされるようです。そうでなければ、先祖に罪があって子供がこんなふうに生まれた。また、争ったりもされますね。あなた側の先祖に問題があるとか、いや、そうじゃない、日本の国がこうだから…、などと言われますが、そんな話をすることは子供が大きく傷つきます。

なぜかと言えば、私にもそんな血統があるので、私にもそんな罪が連結するかもしれないなと心理的に考えるので、父母がこんな話を子供たちの前でしないことがとても重要です。そのように血統があるので、子供たちは非常に恐ろしく思うし、自信をなくします。それじゃあ、私は根本的に何か欠陥があるのかと、我知らず考えるようになるので、そんな話を本当にしないことが、第一に重要です。

 ăă‚Œă‹ă‚‰、兄弟に障害児童がいることを恥ずかしく思わないよう教育をしなければなりません。

 ç§ăŽĺźŸăŽĺ ´ĺˆăŻ、5歳ぐらいの知的水準があって、今、27歳ぐらいになりました。私より5歳年下なので。

ところで、私の弟はそんなにひどくはありません。今、肢体(障害)2級を受けています。1級がいちばん深刻ですが、2級を受けていて、独りで挙動することができ、言葉も話せて、本を読むこともでき、足し算引き算をすることもできます。ですから、そんなにひどい状態ではありません。ところが、私の知っている祝福家庭の中で、どんな家庭がいたかというと、この子の場合は肢体障害児童でしたが、もちろん、歩くことはできましたが、ろくに話すことができず、いつも横に小便を入れる缶をさげていました。腎臓に問題があったので、正常に小便ができないので、いつも缶をさげていました。夏になると、その子が来るととても臭いのです。いつも小便缶をさげて歩かないといけないので、とても臭いので他の子供たちも近寄らないし、はげしくからかったりしました。

客観的に見ると、私の弟の状況とその子の状況は、私の弟がはるかにいい状況でした。ところが、小便缶を下げて歩いていた子供のお母さんは、その兄弟たちにこのように教えました。「弟について、絶対に恥ずかしいと思ってはいけません。弟がいるから、あなたたちがいるのです。弟を通して、あなたたちがどれだけ多くのことを学んだか。他の人に配慮することを学んだし、お父さんとお母さんもこの子を通してもっといい人間になった。愛することができる人間になった」。このように教えたと言います。

ところで、私の両親はこんなことは言いませんでした。こんな話をしなければ、こんな教育をしなければ、恥ずかしく思いなさいと言うのと同じことになります。なぜかというと、子供たちはどのように考えるか分かりません、このような状況に対して。父母が与える額縁(フレーム)を通して、自分の弟をどう見ればいいのか、自分の兄弟をどう見ればいいのか考えるので、この子を恥ずかしく思ってはいけない。あなたの兄弟だ。私たちに神様が下さった、本当に亨進様が与えてくださった名前のように、天の宝物なんだ。私たちの家庭に対して天が下さったプレゼントだとお母さんは思うよ、お父さんは思うよ。

このように子供たちに教育しなければいけません。ですから、その子の状態がどうなのか、どれだけ悪いか、悪くないか、そんなことを離れて、父母がそのことを子供たちに教育することが非常に重要だと思います。

 ä¸€äž‹ă‚’ćŒ™ă’ă‚‹ă¨、ある教授夫妻がいます。恐らく、私が名前を言うと皆さんが知っている教授夫妻です。その方に8歳の子供がいます。その子に肢体障害があります。私も本当に知りませんでした。その方は本当に華々しく活躍していて、いつも明るいので、そんな子供がいると知りませんでした。

ところで、家庭訪問すると、その子供を座らせて、私ぎ息子で…と説明してくれました。私が、こう言いました。「どれほど大変でしょうか。どうして、こんな状況なのに明るくしておられるのでしょうか。本当に知りませんでした」と話すと、その方は、こう言いました。「私はこの子を通して、傲慢でなくなりました」。こう言ったのです。「自分は全て持っていると思っていました」と話すのです。自分はたくさん教育を受けて、いい仕事もあって収入もよくて、全てあるので、世の中を当然のように考えていたのに、この子を通して私は傲慢にならないことを学んだ、と話されるのです。私がその話を聞きながら、本当に神様は試練の中でもこのように祝福をくださるのだなあと、本当に感動深く感じたことを覚えています。

 ä¸‰ç•Şç›ŽăŻ、障害児童の兄弟たちに、「あなたは本当に大切な(貴重な)子供だ。お父さん、お母さんはあなたを大切に思っている」ということを、機会がある時に、言ってあげなければなりません。

 ăŞăœă‹ă¨ă„うと、父母は本当に余裕がないじゃないですか。障害児童の世話をするために本当に余裕がないので、余裕がなくて愛してあげられないのに、子供たちの立場では愛されなかったので、「ああ、お母さんは私を愛していないので、愛してくれないんだ」と考えるようになります。ですから、あなたが本当に大切だと話してあげなければなりません。

亨進様は子供たちと1対1、子供を抱いてあげなさいという話を聞いたと思います。ある場合には、障害児童が家にいると、その子供を置いて行けない状況もあるじゃないですか。そういう時は創意力を発揮してもいいと思います。1週間に1度、日を決めて、その子供が食べたい食事を家で作って、それを与えながら、「これはあなたの日だ」と、そうしてもいいと思います。それから、1000ウォンぐらいあげて、「これで好きなものを買って食べなさい」と。このように1カ月に1度、そのように日を決めて、1週間に1度は多過ぎますね、1カ月に1度、その子供のために(何か)してあげたらいいと思います。兄弟が3人なら、毎月1人ずつ回りながら、そうしてもあげてもいいですね。そういう風に少し創意力を発揮して、子供たちに一人ひとりの子供の日を作ってあげる、その子供が大切で、お母さんにとって特別だ、その話、それを表現すること、話してあげることが非常に重要だと思います。

それから、ある子供の日になった時、母親の心をその子供に話してあげるといいようです。お母さんが何々のことで苦しい、だから何々のことであなたがお母さんのために祈祷してくれたらいいな。お母さんが今日、総会に行くのだけど、お母さんがうまく話せるように祈祷してくれたらいいな。このように、その子に頼むことは本当にいいと思います。自分はまだ幼くて何もできないけど、お母さんのためにできることもあるんだ、私が力を与えることができるんだ、そんなことを子供たちが感じることができるし、お母さんにとって私は大切なんだ、私がお手伝いできる存在なんだ、そんなことを感じられるようになります。

 ăă‚Œă‹ă‚‰ĺ››ç•Şç›ŽăŻ、祝福というものを念頭において、「あなたを愛してくれる人が必ずいるよ」と話してあげることが重要だと思います。

 ç§ăŸăĄçľąä¸€ć•™äźšĺ“ĄăŻăżă‚“ăŞçĽçŚă‚’ĺ—ă‘ăžă™ăŒ、今日も見たように天宝会の会員たちも祝福を受ける姿を見ましたが、障害児童の兄弟たちは自分たちは障害がないのに不安(恐れ)があります。私のような人間と誰が祝福を受けたいと思うだろうか、そんな思いがあります。

だから、「あなたを愛してくれる人は必ずいるよ」、「あなたを理解して受け入れてくれる人が必ずいるよ」という、そんな話を子供たちにしてあげることはとても重要です。でなければ 子供たちは祝福を受ける前にとても不安に感じ、私を受け入れてくれる人がいないので、私は理想家庭を実現できない、私は四位基台を成せない、そんな漠然とした不安感が子供たちに生まれます。

そうだとすれば、私の話をしてあげることもいいと思います。ヨナ様は障害をもった弟がいたけど、父母様の家庭に入って立派にやっているじゃないの。亨進様のように、あなたを心から愛してくれ(る人がい)が、あなたは立派に四位基台を成すことができるよ、それは真の父母様があなたに願われていることよ、と教えて、話してあげる。幼い頃から話してあげることがとても重要だと思います。そうすれば、子供たちは漠然とした不安感がなくなります。

 ăă‚Œă‹ă‚‰äş”番盎は、子供たちが善良なことを当然と考えてはいけないということを、私がしっかりお願いしたいと思います。

 ĺ­äž›ăŸăĄăŻ、さっきお話したように憎しみ、嫉妬、愛、同情などとても多くの感情が交じっていますが、私たちは生活の中で見ると、この子はいい子だ、言うことをよく聞く子だ、このように考えやすいのです。なぜかというと、障害児童の面倒をみることが非常に大変なので、あるいは、そうなるのが自然なのかもしれません。

また、ある時は、とても腹が立つ場合があるでしょう。私も思い返すと、「お母さんはどうしてそんなに極端な表現を使うのだろうか」、「もう少し理解して受け入れてくれればいいのに、どうしてそうできないのだろうか」、そんな思いがする時がありました。幼かった時は。ところが、いま考えると、私が子供を生んで育ててみて、それもあり得るなと思います。私はこんな平凡な子供を育てるのも大変なのに、(障害をもった)弟を育てながら、どれほど多くのストレスと、どれほど多くの心痛があっただろうかと思うと、すべて理解できます。しかし、成長期には、お母さんがそんなに私に対して腹を立て、ストレスを受ける姿を理解できません。単に、お母さんは私が嫌いだからそうなんだと考えやすいのです。

ですから、天宝会の会員のお母さん方も、人間なので腹が立つ時があるはずです。そういう時、腹が立っていても、腹が立った(怒った)後、それが少し鎮まった時に、「お母さんは、こんなことで腹が立っていたの。あなたのせいじゃなかったの」。このように、そんなことが起こった時には、子供たちに「ごめんなさい」と言ってあげて、さらに、「これこれで、あなたが手伝ってくれて、本当にありがとう」と話してあげることが、障害児童の兄弟たちのアイデンティティー発達のために非常に大切だと思います。自分を大切に思うために、非常に重要だと思います。

 ç§ăŒçŤ‹ĺ ´ă‚‚ă‚ăăžăˆăš、主観的な考えを列挙しましたが、私も見ながら、如何なる場合にも私たちを放棄しない真の父母様の姿を目の当たりにしています。それから、復帰摂理を導きながら、人間たちを何度も何度も放棄しうる状況でも、私たちをずっとつかんで放さず、復帰摂理をずっと導きながら中心人物を立てられる神様の復帰摂理路程も目の当たりにするようになります。

そうです。私は、ここに来ながら誓ったことがあります。私は、天宝会の会員の皆さんを見ながら、実際に私の母のようだと思いがします。それから、どんな考えをもっているのか、私は心情で感じられます。私が一つ考えたことは、ここに来て絶対に泣くのじゃない、そんなことを誓ってきました。なぜかと言えば、今は一緒に泣いて同情するのでなく、どのように勝利して、どのようにしてここで私たちの子供をもっと立派に育てられるか、それをここで論議する場所なので、そうしたくないと誓いながら来ました。

 č–書でも、天国に入る人は本当に、幼子のように純粋でなければならない、こんなみ言があります。ところで、天宝会の子供たちを見ると、本当に幼子のように純粋じゃないですか。私の弟を見ても、本当に幼子のように純粋です。ある意味では、どんなに幸福だろうか、太平だろうか。そんな考えももつようになるのですが、そのように考えると、本当に天国に近い子供は、私でなく私の弟だなあ、こんなに考えたりもしてみます。そうして、このようにできるのも、この子供のためには幸せかもしれないな、と考えてみたりもします。

もちろん天宝会の子供たちは育てるのが難しく、他の子供たちと違いますが、その子供たちは私たちの二世で、とても大切な子供だということ、また、真の父母様の前に大切な子供であることは変わらないと思います。ですから、私たちみんな力を合わせて、本当に大切な二世として育てられるように共に努力しましょう。

 ***

 ć–‡äş¨é€˛ć§˜ă”ĺ¤ŤĺŚťďźŚďź˘ă‚łăƒŞă‚˘ĺŽšćœŸçˇäźšă§ăŽăżč¨€
2008年10月25日 韓国本部教会
今日は私の牧師様がみ言葉を語ってくださいます。
皆さん、大きな拍手をお願いします。

 ăƒ¨ăƒŠć§˜ăŽăżč¨€č‘‰

 ç§ăŒčŠąă™ă¨ă„ă†ă“ă¨ă‚’äş¨é€˛ć§˜ăŻ30秒前に話されたので、私がどこから、何の話をしたらいいか... 食口の方は大部分がご存知だと思いますが、私には障害のある弟がいます。皆さんご存じでしょう? フル-ツバスケットの皆さんを見ていると、私の身内のようで、本当に他人のようではありません。考えようによっては、私のお母さんのようでもあり、また2世たちを見ると、私の兄弟姉妹のようだとも感じられます。

 ďź‘ăƒśćœˆăťăŠăŤăŞă‚Šăžă™ă‹? フル-ツバスケットのお母さんと2世たちが来てくださった時、このように考えました。私がこの方たちに何をしてあげられるか?私がして差し上げられることは、一緒に泣いてあげることではないと思いました。一緒に泣くことより、これからもっと良い方向を模索し、どのようにして助けてあげたらいいのかと考えていくことが、フル-ツバスケットの方々の為になることではないかと思います。

 ĺżƒćƒ…çš„ăŤă¨ăŚă‚‚čż‘ăć„Ÿă˜ă‚‰ă‚Œăžă™ă—、個人的に会長さんとも会ってみましたが…協会としては、微力で力になっていないというのが現実です。 この部分が、もっと開発できるようにいつも念頭において、いつかは2世の為の施設が出来ることを私も期待しています。食口の皆さん感謝です。歓迎します。

 äş¨é€˛ć§˜ăŽăżč¨€č‘‰

 ç§ăŽĺ¤ŤäşşăŽăżč¨€č‘‰ăŻă™ă°ă‚‰ă—いです。私ぎ复人は、私の牧師様です。お父様が祝司任(チュクサニム)に任命してくだいました。婦人には慈悲の心があります。お母さんたちが実践する心、私たちの教会婦人たち、お母さんたちから、文化と愛と理解と慈悲の心情文化が溢れ出ているのを見ることができます。 お父さん達には、不足だとも言えますが、お母さん達の真の愛の文化を理解すること、この心情が私たちの教会には重要です。 教会でも、組織的にも女性指導者が出てきています。女性たちに大きな拍手をお願いします。今日はここに女性指導者を迎えています。これからは本当に女性時代が来ます。私たちはたくさん学ばなければなりません。お母さんたちから、学ぶことが沢山あります。家庭でお母さんが真の愛の中心であるように、教会でも同じです。

 äťŠć—Ľ、本当はどういう言葉、何を言ったらいいのか分かりません。何故かと言うと、個人の状況が分からないし、どういう障害物があるのかなど、私には正直にいって分かりません。具体的なことを知ることが出来ません。そこで私が、聞いたり、学んだ内容を皆さんと考えて行きたいと思います。

 çš†ă•ă‚“、私はこんな言葉を聞きました。あるお母さんの言葉です。子供に障害があるお母さんです。"肉身の障害があるが、心にも障害がある。"このことはどういう意味ですか?
子供に問題があった場合に、私たちが集中しなければならないこと。父母として、特別に注意しなければならないことです。心に障害が生じることに注意しなければなりません。子供を見ながら、私自身を見て、私は本当に罪人だ。私がたくさん悪いことをしたから、子供がこのようになった。私の父母、祖先たちがとても悪いことをたくさんしたから、子供がこのようになった。私が悪い人間だったから、子供がこのようになった。このように(否定的に)思うことが、まさに心の障害です。私たち自身を見るとき、絶対にこのように見てはいけません。このように考えると子供たちは、祝福の生活を生きることが出来ません。 皆さんも、祝福となる生活を生きることが出来なくなります。必ず、こんな(否定的)考えから開放されることを真のご父母様の名において願います。アジュ-

 ă“ă‚“ăŞč€ƒăˆăŒä¸€ç•Şĺ•éĄŒă§ă™。私の考えが私の言葉を指導します。私の言葉が私の行動をなります。反復する考えが、反復する言葉となり、その言葉が行動となり、行動が習慣となり、習慣が人格となり、人格が人生となり、人生が運命になります。私たちは、自身を見るとき絶対に"私は悪い人間だ。私は罪人だ。私は悪い家庭から生まれた。"などと思ってはいけません。 真のご父母様の心情、神様の目からこの子供たちを見て愛しているという、こういう考えが重要です。神様は、愛する子の母として、私を愛してくれる。このような言葉を毎朝、いわなけれななりません。

毎日、私は誇れる母だ。私はすばらしい母だ。私はすばらしい人だ。私は祝福を受ける人だ。私の生活は奇跡だ。など皆さん自身に言わなければなりません。これは皆さん自身だけのためではありません。子供たちのためでもあります。 子供たちのことを思い、愛しているならば、私たちは自分を見る目が明るくなり、希望に満ち、愛に満ちていなければなりません。このような心を育てなければなりません。

 çš†ă•ă‚“、こんなことを聞いたことがあります。ある教師から聞いたことです。雁を知っていますね。雁はV字を書いて飛び、数千マイルをも行くことが出来ます。グル-プを作って舞い飛びます。そこでこんな研究があったそうです。科学者たちが雁の音声の研究をしたというのです。お腹がすいた時はこんな声を出す。家に帰りたいときはこんな声を出す。何かを願う時の雁たちの言葉があるというのです。 雁たちが飛ぶとき、その音声を研究すると、1分間に数10回以上、鳴きながら飛ぶというのです。どんな声を出していたでしょうか?分かりますか?お腹がすいた。家に帰りたいということではなかったというのです。雁たちが1分間に数10回以上、どんなことを言っていたと思いますか?ファイティング!(頑張れ)このように言っていました。雁たちの為に大きな拍手をしてあげてください。皆さんびっくりしました。雁たちは人間よりもましですね。私は出来ない。私はこのようには生きられない。私は希望がない。こんな考えは雁のようでなく、オムツ(韓国語でおむつをキジョギと言い、雁をキロギと言うので駄洒落を話されました)です。こんなものは捨てなければなりません。

 ç§‘ĺ­Śč€…ăŸăĄăŒă“ăŽă‚ˆă†ăŤč¨€ă„ăžă—ăŸ。1分間に数10回以上もファイティングと言っていると。この言葉の意味はなんでしょう?激励の意味ですね。激励すること。お互いに、私はすばらしい母だというのです。ご婦人が大変な時に、自身で、私は子供たちにとって悪い母だとか言ったり、兄弟にとって、私は悪い姉だと言ったりする時に、絶対そのように言ってはだめだ。婦人はすばらしい婦人だ。すばらしい姉だ。すばらしい母だ。などと私たちはこのような目で見なければなりません。お互いにお互いをこの雁のように励ましあうことです。心の底で考えているだけではなく、雁のように叫ばなくてはいけません 。
お互い同士、力をあげあうのです。このようにすることです。私たちは、一緒に生きていくのですし、前進して行かなければなりませんから、天一国の道を進むとき、私たちはお互いに"私たちは本当に罪深い人だ。こんな状況を続けていくだろう"などというのは、お互いを励ますことではありません。 私たちは出来る。私は生まれついた人生を生きることができる。私はすばらしい母、父になれる。すばらしい兄弟になれる。私は驚くような子女になれる。このように自身を見れるようになることです。

 ĺ…ˆăťăŠăŽăŠćŻă•ă‚“ăŽč¨€ăŁăŸäş‹ă§ă™ăŒ。自分の子に肉身的障害があったのですが、自分が母としての過去を考えた時に、私には心の障害があったということです。子供を見ながら、自殺したいといつも思っていたということです。でも、困難を越えたとき、障害は単に肉身の障害があるだけではなく、心持ち方で心の障害にもなるということに気が付いたということです。このお母さんがいう言葉、その知恵がフル-ツバスケットのお母さんたちだけに必要なことではなく、すべての人たちが記憶すべき必要がある言葉です。私たちは必ず成功します。子供たちを光り輝かせてみせます。このことを信じてください。アジュー

 ć—ĽćœŹăŤčĄŒăŁăŸă¨ă、雁の話をしました。また私たちは朝、子供を見て3つの長所を捜すということをしています。私たちは、探すもの(望むもの)を発見するようになっています。この部屋の中で、青いシャツを着ている人を探してください。1、2、3、終わりです。青いシャツの人を探しましたか?どこにいますか?これはどういうことですか? 私たちは、望むものを発見します。この部屋にピンクのネクタイをしている人もいますし、白いシャツ、黒いシャツを着ている人もいますが、皆さんの目には、入ってきませんね。何が入ってきましたか?青い色しか入ってこなかったでしょう。そうでしょう。私たちは、自分が探すものを発見します。このことは、すごく大切なことです。女性の方たち!鏡でも、顔を拡大してみるものがあるでしょう。どうして、そのような鏡を買うのか分かりません、男性として理解できません。鏡を見ながら、しわを見つけたという。そんな鏡で見たら、必ずしわを発見します。そんな鏡を使わないでください。探すもの(望むもの)を発見するようになっています。しわがここにもある、あそこにも…このことは望まないことを発見することです。注意しなければなりません。人生を生きながら、子供を見る時、主人を見る時、家庭を見る時、あまりにも良くないことで呪いを受けたという、そのような目で見ると、本当に呪いを受けた内容を探すことになります。青いシャツのように、しわのように、拡大してみる鏡をみるのと同じことになります。これでは希望がありません。失敗することになります。放棄した足跡を残すことになります。このように生きてはいけません。真のご父母様が祝福の人生を祝福してくださいました。このことはどういう意味ですか。私たちの運命を開いてくださったということです。私たちが自身でどういうものを探すかということで発見する内容が違ってきます。私が家族の者たちを見るとき、また私自身を見るとき、長所を見つけることです。たとえば、ここにいらっしゃるお母さんたちに、50名の短所を探してみてくださいと言ったら、すぐに書くでしょう。私は、子供にこのようにしてあげられないとか、私はすぐ怒るとか。数千箇所でも出てくるでしょう。なぎき、長所を書いてくださいといったら、3、4個、或は12個でも大変なことでしょう。このようではだめです。変えなければなりません。私たちは祝福の生活を生きて、他の人にも祝福したければ、私たちから祝福があふれるようでなければなりません。私たちからどんどん多くの祝福が出てこなければなりません。どこから始まりですか?私たちの心から始まるのです。お互いを見るとき、家庭を見るとき、友だちを見るとき、新しい習慣を持たなければなりません。お互い長所を発見しなければなりません。そうするとおかしいことに長所を発見できます。青いシャツのように祝福の内容を探すことになります。同じ状況だとしても、目の前にある内容が天国となり、祝福になる。これがイエス様のみ言葉です。天国が来たとしても、ある本のように、天国が来たというようには来ないということ。天国はまさに私の心にいるという言葉です。心を見る勝利者、祝福の姿になることで、子供たちが祝福された人生を生きることができます。それでも、私の子供はこうなのに祝福された人生を生きることができるでしょうか?私の子は肉身がこんなに大変なのに、どうやって祝福の生活を生きることができますか?と思うかもしれませんね 肉身が健康でも、祝福を受けられない生活を生きる人がどんなに多いでしょう。健康な人でも、ヒットラ-のように生きる人もいます。最悪な状況に完全に溺れて生きている人たちが大部分です。肉身的に健康であるということだけが、全部ではないということです。それよりも大切で、恐ろしいことが心の障害です。そしてそれよりもっと恐ろしいことは、心の障害を持って、他人の心に障害をもたらすことです。こういう心であってはいけません。私たちは祝福家庭として、真のご父母様、神様の前に勝利者の歩みを残します。私たちは、生まれついた祝福の人生だという証拠を残します。私たちは、失敗は絶対しません。私自身を見るとき、このように見なければなりません。このような目でみることが、霊的な修練であり、真のご父母様のためになることであり、神様のためになることです。私たちが祝福の生活を生きることが、勝利者になることです。

 ç§ăŸăĄăŻé›ăŽčŠąă‚’čžă„ăŸăŽă§、日本に行ったときの様に、シックの方たちを修練します。雁は1分間に数10回以上ファイティングと激励します。横にいる人とペア-きなっが、12個の長所を言ってください。1分間の間にです。勝利しましたか?もう30秒をあげます。早くしてください。勝利しましたか?勝利したら、神様に大きな拍手をしてさしあげてください。 今まで、私が面白ろく話をしているのに、皆さんはじっとしていましたね。なのに私が、"雁になろう。お互いに励ましあって行こう"と言ったことで、聖霊が降りてきました。聖霊のために拍手!

 ç§ăŸăĄăŻăŠäş’ă„ăŤé•ˇć‰€ă‚’č¨€ă„ĺˆă†ć™‚, 雁のようにものすごいエネルギ-がでていました。牧師様が話しするときには、静かにしていたのに、長所を話しする時には、うるさく、エネルギ-に溢れていました。まさにこれです。お互いに長所を探すエネルギ-です。これが、表現できないほどのエネルギ-になります。このエネルギ-が言葉から満ちて、心の底から切れることなく溢れてこなければなりません。自分を見て、朝、顔を洗うときに、年をとったな、10年前はこうではなかったなどと、このように生きてはいけません。勝利者の姿ではありません。私は本当にかわいいな、きれいになったな、どんどん光輝いているな、私は生まれつきのいい人生を生きているなと、このように自分を見なければなりません。祝福される人生を生きたければ、私の心から始まらなくてはなりません。あのお母さんの言葉を記憶してください。肉身の障害よりも危険なことが、心の障害だ。これよりも危険なことは、私の心の障害を通じて、他人の心に障害をもたらすこと。これに注意しなければなりません。このことを記憶してください。私たちは、祝福家庭として、どんな障害物を天使長サタンが投げつけても、私たちは、未来を見て運命を探し出して、前進し、必ず勝利者の足跡を残していきます。アジュー

 çš†ă•ă‚“ăŽĺżƒă‹ă‚‰ćŸ“ăżĺ‡şă‚‹éŸłăŒ、神様の音性にならなければなりません。皆さんの心から広がり出る祝福が、皆さんの心から始まります。祝福の人生を生きたければ、私の考えが祝福に満ち溢れて、他人の心を障害の心にしてしまうのでなく、解放の心にしてあげる。釈放された心にしてあげる。 このような祝福の人生。真のご父母様の為にこのような人にならなければなりません。ここにいる人たちは、統一家で一番の勝利者だと思います。

 ă“ă‚“ăŞć•™č‚˛č€…ăŒă„ăžă—ăŸ。この方は、黒人を教育しました。アメリカで当時、60嚴䝣、人たちは大変な人種差別を受けていました。 白人たちと一緒に座ったり、食べたりすることが出来ませんでした。トイレも別に使わなくてはなりませんでした。水を飲みたくても、黒人が飲むと水が汚くなるといって、別なところで飲むようになっていました。そんな時、この先生は黒人たちを教育しました。黒人たちは、学校に行きたくても行けませんでした。そんな状況の中、どうしようもないと思い、放棄して、人生流れるように行ったらいいと、考える人たちが大部分でした。それなのに、この先生はそのように考ませんでした。小さなアパートの一室で子供達を教育しました。始めは個人指導からしました。マルバ・カルリンジという、この先生が指導した子供たちが当時、100%小学校を出ました。それだけではありません。100%が中学校を卒業しました。それだけではありません。100%高校を卒業しました。それだけではありません。その子供たちが100%大学を卒業しました。この先生が指導した子供たちが100%小学校、中孌栥、鍘栥、大学を卒業しました。とてつもない奇跡がどうやって出来たのか? この先生が指導した子供たちが、今は国会議員とか社長とかになっています。どうやってこのような奇跡が起きたのか?この先生に祝福の心があったからです。具体的にどのようにしたのかが知りたいでしょう。具体的に言うと、ある子供が、"私はバカです。あまりにも勉強が出来ません。やりたくありません。"と言うとき、自分のことを否定的に言うとき、先生は罰をしました。どんな罰かといえば。ABCがありますね。アルファベットを最初に書かなければいけません。…y、zまで、項目ごとに自分が生まれながらに出来る力のある子であるということを書かせます。韓国語でいえば、キヨク..キガマッキン(私はとてつもない子)であるから、成功するだろう。私は驚くような子だから成功するだろう。とか、大変な能力があるから、だれよりも勉強が出来るなどと、子供たちが否定的な思いになったりする度に、心に障害が生じる度にこのような罰をしました。祝福の心をつくるという罰です。祝福の言葉を書かなければなりません。心に障害が生じる度に罰を与えました。 私たちは、どんな状況にあっても、障害の心を越えなければなりません。蕩減の心を捨てなければなりません。私はできない人だなどと言う考えを捨てなければなりません。これからは勝利者、解放、釈放圈に入った勝利者の心を持たなければなりません。

 ćŻŽć—Ľ、このように心をみなさい。ご主人たち、婦人が悪いお母さんだという度に、罰を与えなさい。韓国語のカナダラで言うのです。私はとてつもなく、驚くような母の人生を生きるだろう。私は、すごい子供を産んだ。私は誰よりも、もっと大切な人だ。私はロ-マよりも大きな人だなど。理解できるでしょう? こんな罰を沢山してあげてください。こういう(祝福)心を必ず持たなければなりません。私たちは、必ず遂行しなければなりません。統一家の食口達は、否定することが好きですから、このような罰をしてください。皆さん自身にも良い罰です。カナダラ罰です。罰ですが、これは良い罰です。私が罰だと言いましたが、祝福となります。子供たちを見るとき、ご主人を見るとき、また皆さん自身もこのような目で見ることです。これは神様の目です。神様の目で、皆さん自身を発見してください。神様の子なのに、弱く、能力ないとこのように子供が口にすると、どれだけ心が痛いですか?神様も同じです。神様も私たちと同じ解放釈放時代にいらっしゃるので、神様の為にも、私は生まれつき良い人間だ。私は驚くような人だ。私は奇跡を造る人だ。このようにして行くことができたら、神様までも感動させることができます。アジュー

 ă™ăżăžă›ă‚“。私はこのような言葉を言うとき、聖霊が早く降りてきます。もともと、静かな人で瞑想を沢山したりする者ですが、こういう内容を話すときは、聖霊が早く降りてきます。聖霊に感謝します。必ず、私たち自身から始めます。祝福の生活を生きます。生きるしかありません。私たちはこんな考えを数10回、雁のように自然に言葉に出ていくようになれば、他者に祝福の心を育てることになります。他者を障害の心から解放させて、祝福と希望の心へと変えていくことになります。 こんな考えをすると行動が変わります、行動が変わると、次に習慣が変わります。習慣が変わると人生が変わります。人生が変わると運命が変わります。 神様、真のご父母様の為に、子女たち、皆さん自身の為に、後孫の為に、絶対に敗北者でなく、失敗者でない人生。誇らしい人生、驚くほどの人生を生きることを確信をもって信じます。 他人に、雁の力を与えて、雁の言葉を使うとき、神様は喜ばれます。心が喜び、家庭が喜び、他の人を喜ばせる。運命に向かって行き、鷲のように羽を広げて、永久の勝利者の人生を生きることを祝願します。

 çĽˆçĽˇ

 ć„›ă™ă‚‹ăŠçˆść§˜、神様。天地天宙真父母様。私たちは、数10年間あなたに侍り、ついてきました。 蕩減の時代を過ぎ、真のご父母様に良く侍ることが出来なかった、責任を果たせないことを見たり、沢山経験してきました。 しかし、このようなとてつもない、新しい時代、環太平洋時代、解放釈放時代に韓国のすべての祝福家庭が、障害の心を捨て、他の人を感動させることができる祝福の心を学ばなければなりません。 私たちは敗北者でなく、蕩減の時代に立ち止まっている失敗者ではありません。 私達は解放釈放時代、安定の時代へと入ってきた祝福中心家庭です。あなたが6千年を待ってきた祝福家庭です。

 ç§é”ăŻĺż…ăšç§é”ăŽäžĄĺ€¤ă‚’çŸĽă‚Š、唯一の価値、宇宙的な価値を知って、アイデンティティを知って、神様の子女だ、真の父母様の子女だ、勝利の子女である私たちの価値と目的を知って、他の人も祝福させ、あなたの愛と歴史がこの地に実践できることを信じています。

 ç§ăŻĺż…ăšă‚ăŞăŸă‚’čžąă‚ă‚‹ă‚ˆă†ăŞă“ă¨ăŻă—ăžă›ă‚“。あなたが地獄で6000年間過ごされてこられたのに、これから真のご父母様に侍り、祝福家庭を持て、世界の統一家が復活しながら、私達はあなたの驚くような愛と慈悲と生命と血統を分けることが出来る孝子、孝女の人生を生きることを祈願します。

 ç§ăŻĺż…ăšă‚ăŞăŸăŽç‚şăŤĺ‹ĺˆŠă—ăžă™。私の子供たちは必ず勝利するでしょう。あなたが私達の道を見てくれることでしょう。 私達は門が閉ざされたと思ったのに、私が勇気を持って行くならば、あなたが多くの門を開いて下さるでしょう。 私はこれから、新しく心の障害を捨て、お母さんが言われたように、心にある障害ほど恐ろしい物はないという内容を相続して、私達は必ず祝福を分ける人になって、祝福の希望を復活させ、他人に植え付けて、あなたの驚くような子女になります。お父様、私を使ってください。

 ă“ă“ăŤă„ă‚‹çĽçŚä¸­ĺżƒăŽăŠćŻă•ă‚“ăŠçˆśă•ă‚“ă‚’é€šă—ăŚ、驚くほどの役事をしてください。

 ă“ăŽč˛´é‡ăŞçĽçŚĺŽśĺş­ă‚’é€šă—ăŚ、多くの人を感動させ、多くの人がどんなに障害物や、サタン達が反対する生活をしてると考えているとしても、この貴重な祝福中心家庭たち、ここに集まった祝福の子女達が、お父さんお母さんを見て、私はこういうふうにに生きなければいけない、勝利者のように生きなければならない、心の障害として生きてはいけないと感動の役事をしてあげることができる者になるように承諾してください。 私達は必ずご父母様の代表となり、子供たちも多くの人に感動をあげる子供になることがでる事を信じ、具体的に毎日成長して、私自身の心を光輝かせ、あなたをも賛美し、あなたを感動させる自分となり、私の運命を実践し、あなたに驚くような栄光をお返しする孝子孝女に私たちになれるように役事してください。切に願いながら、文亨進の家庭の名、真の父母の名、真の家庭の名、統一家の名でお祈りします アジュ

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 2008ĺš´8月26日 松濤本部教会 礼拝堂

一条吉広 米国天寶會(てんぽうかい)会長

私は日本に来る前から、皆さんにお会いできるのを楽しみにしていました。今日は、皆さんのアンケートにお答えし、最後に祝福に関して触れてみたいと思います。

 ç§ăŻ1982年のニューヨークで行われた2075双の祝福に参加したした後、韓国で家庭をスタートしました。最初の子供は韓国で、二人目はアメリカで生まれました。二人目が韓国に帰ってきて、成長を見ながら、3,4カ月の後、どうも体の発達がおかしいということに気づきました。そして、一歳の時、クリスマスの冬休みにアメリカで検査を受け、遺伝子に問題があるということが分かりました。

 ç§ăŻ、グレンドーマン博士の『両親は最良の医師である』という本を読んでいましたし、また、子供が生まれる前に、『子供に数学を教えなさい』という本も読んでドット方式を学び、長女に応用させていました。息子に問題があると分かった時点で、妻がアメリカから帰ってくる前に、フィラデルフィアにあるドーマン博士の研究所に申し込みました。5月頃に、研究所から「どうぞ、来て下さい」という返事をいただきました。その時点では、やはり、日本、韓国では社会体制が障害者を受け入れ難い状況にあったので、ドーマン博士を通してだったらなんとかプラスになるのではないかと思い、私と相対者は仕事を止めて、一家は86年の6月にアメリカに引っ越しました。

 ĺŽśĺ†…ăŽä¸ĄčŚŞăŒ、研究所があるフィラデルフィアから1時間ぐらいの所に住んでいましたので、年に2回、1週間の講習を受けながら、子供のレベルをチェックして、家庭でプログラムをやるという恵まれた環境に中で、妻が3年間そのプログラムをやりました。私も毎日、帰宅してからは、いろいろなカードを作りました。安い用紙を探して、3年間で、2千枚ほど作りました。それ以来、ワシントンの郊外、メリーランド州に住んでおります。

 ćŻĺ­éĄŻĺŁŤ(けんじ)は、障害がある場合は、21歳まで公立高校に所属できますので、特殊学級にいながら、21歳になった時点で卒業して、今は、ユダヤ系の老人ホームでボランティア活動をしています。プログラムがあり、車で送り迎えしてくれます。一日やることがあるので、本人も安心しています。

 ĺ­äž›ăŽçŠśćłă‚’申しぞすと、知的障害で、知恵遅れです。算数はできません。任天堂のゲームが得意ですが、ただコインを集めるのが好きで、あまり先に進みません。人の名前や物覚えが良いです。以前つき合っていた人の名前を私達が思い出せない時、「あの人の名前はなんて言うの」と聞くと、すぐに答えてくれます。家で誰かが何かを無くした時、「見たこと無い?」と聞くと、「あそこにあるよ」と言うとか、そういう面での記憶力が良いです。

 éŤ˜ć ĄăŽć™‚、彟は、学校の先生、スタッフの名前を覚えて、「グッドモーニング、ミスター誰々」と挨拶しました。「サンシャイン賞」というものを貰ったときも、みんなに挨拶をして、みんなからかわいがられていたからです。私たちが引っ越しすることになって、学校にお別れを言う最後も日、担任の先生がお別れ会をやってくれ、他の先生やスタッフ達が挨拶に来て、大きな色紙にメッセージを書いてくれました。

 ďź“ĺš´é–“ć•™ăˆăŚăă‚ŒăŸĺ…ˆç”ŸăŒ、私たちが引っ越しし、学校が代わってその始業式の日に、そこの学校の廊下に立っていました。顯士が前の学校から転校したためプログラムがなくなり、新しい職を探していた時、20名の候補者から一人だけ選ばれてこの学校で教えることが決まったのでした。そのことを知らない私の妻は、顯士を連れて行った始業式の日、ばったり廊下で先生に会った時、「ここまで挨拶に来てくれたの」と感激して泣いたそうです。その先生は今年6月に結婚しました。特殊学級で教えてきた子供の中で、顯士だけを結婚式に呼んでくれ、顯士は私と一緒に結婚式に参加しました。そのぐらい先生は息子をかわいがってくれたのです。

 ă“こからは、皆さんが書かれたアンケートの中で、答えられる内容を中心にお話していきたいと思います。

 「問題を持った祝福の子女がなぜ祝福家庭に生まれるだろうか」と、誰でも疑問を持ちます。顯士が障害を持っているということがアメリカの病院で確認された時、家内は涙を流しました。「一体この障害児を祝福まで導くことができるのだろうか」「誰がこの子を相対として欲しがるだろうか」ということを家内が疑問に思っていました。「おそらく、霊界でしか祝福を受けられないだろう。」とも言っていました。しかし、問題はこの事実をどう受け止めるかが私たち親の責任です。私の体験から言えば、神様の栄光を表すためだと信じています。障害児を祝福の子女として授かったことは蕩減でもなく、重荷でもなく、それは神様の栄光を表すためです。これが私の実感です。

 ç§ăŽĺ­äž›ăŽĺ ´ĺˆăŻ、その障害の程度は比較的軽症だと思います。言葉もある程度話せますし、自転車にも乗れます。数学はまったくダメですが。私は自転車にも乗れないと思っていましたが、家族がバケーションでフロリダに行って帰ってきた時、顯士が私の目の前で自転車に乗り始めました。「いつ覚えたの」と家内に聞いたら、「向こうのおじいさんが、顕士だって自転車に乗れるよ、と言って教えてくれた」ので乗り始めたそうです。このように、「この子はできない」と、私たち 自身の中に限界を作ってしまいがちです。

 ďź˜ćœˆăŽĺˆă‚ăŤ、昨年と同じ「ニューホープファーム」で、キャンプをやりました。そこに、一組の日本人家庭が6歳の男の子を連れて、参加しました。子供たちがボランティアのケアで乗馬をしている間、合計4回のミーティングを持ちました。そこで、自分の子供の証や今後の方向性について話しをしました。日本人の家庭のお父さんが開口一番、「質問を書いてきました。なぜ、祝福家庭に障害児が生まれるのでしょうか。」と質問しました。これは、全員が通過する心情路程だと思います。私も同じでした。
しかし、悩みに日々暮れるのではなく、いかにその苦しい心情を受け止めることができるかです。そのような期間をいかに短くすることができるかによって、私たちの人生が惨めな人生なのか、幸せな人生なのかの岐路になると思います。
私たちには特別な使命があると感じております。なぜかと言うと、障害児を通して大きな証をすることができるからです。私たち親と子の関係を見て、感動する人が多いのです。

 ç§č‡ŞčşŤăŽä˝“験を申しぞすと、確か田園調布駅だったと思いますが原研時代に、私が教会活動をしている時、数人の障害者が車いすに乗って、募金活動をしていました。以前は どちらかと言うと、「変な人だなあ」と、近寄りたくない心情を持っていました。しかし、自分の子が、障害児だと分かった時点で、ドーマン博士の研究所に 通って、いろいろなレベルの障害のたくさんの子供たちを見て、そういう子供たちに、非常に心情的に近くなりました。

 ĺ…ˆć—Ľ、マクドナルドで順番を待っている時に、高校生ぐらいの男の子が「いいネクタイをしていますね」とある男性に話しかけ、次に私の所に来て、「あなたのネクタイ好きですよ」と突然言ってきました。私がその子に、「今、学校に行っているの」とか話しかけていたら、注文していたその子のお父さんが、おそらく私がからかっていると思ったのでしょう。振り向きました。その時、私は「私にも実は障害児がいるんですよ」と言ったら、お父さんが「ありがとう」と言ってくれました。自分の子供をさらけ出すのが恥ずかしいような思いでいたのに、同情心で話しかけていたというのが分かったのでしょう。(私は子供の話しをすれば泣けてきます)

結局は、顯士を通して、私ぎ心ぎ中き、障害者に対する思いやりの心が起こってきたのです。なぜ私たちは障害者を持っているのかといいますと、私たちは子供の世話をするためではなく、十字架を背負ったのでもなく、私の成長のために、子供を授けてくださったのだということが言えます。この子を通して私の人格を高め、完成してほしいと神様が願っておられるということを感じるようになりました。自分の足りなさが、自分の子に接する時によく表れます。皆さんも同じでしょうが、同じことを何度も言ったり、やったり、あるいは言ってもやらないこともたくさんありますし、それに対して、親としていらだちを覚えます。そういう時に、いらだちで怒ってしまうのか、あるいはじっと我慢して、「忍耐力を養うためにうちの子がいるのだな」と、どちらを感じるかをいつも思わされています。「天の人間になるんだよ」ということを神様がおっしゃっている気がします。自分の成長のために、顯士は私の近くにいるという感じがしております。ですから、だじゃれで申し訳ないのですが、観点の転換が私たちに願われていると思います。観点は、自分の子供に対する見方ですね。それを転換していくのです。障害を持つ自分の子供を、普通の子女のように扱うことが、ある意味で大切だと思います。その子供に対する同情心が逆に甘やかしにつながってはいけません。

 ăƒ‰ăƒźăƒžăƒłĺšĺŁŤăŽç ”çŠść‰€ăŤčĄŒăŁăŸć™‚ăŤ、講義を受ける訳ですが、その時に次のような話しがありました。あるお母さんが「うちの子はこういう態度を取るのですが、どうしたらいいのでしょうか」と聞いた時に、ドーマン博士は、「あなたにはお子様がいらっしゃいますか」と質問したそうです。さらにそのお母さんが「私の子がこういうことをやるのでどうしたらいいか分からないですけれども」と聞いた時に、ドーマン博 壍は、「あなたにはお子様がいらっしゃいますか」と3回切り返したそうです。その時、お母さんは「この子にも普通の子と同じようなしつけをしないといけな いのだ」とはっと気づいたそうです。

 éĄŻĺŁŤăŽç›¸ĺŻžč€…は、ソーニャと申しまして、コロラド州デンバーに住んでいます。実は今、私の家に来ています。私がアメリカに帰る時には、既に自分の家に帰っていると思います。彟弳は、ダウン症で、16、17歳になるまで、自分に障害があるということを気づかなかったそうです。彟弳は、普通に話せますし、乗馬もやります。水泳も得意です。ただちょっと足りない所はあります。普通の子と同じように親が育ててきたのです。

 ç§ăŻ、顯士を訓読会に参加させます。少し読めるんですね。交替で1節、2節読みながら、参加しているという意識を持たせるために、本人にも読ませます。2、3行助けながら読ませます。途中まで読んで、最後の言葉を読ませるとか、簡単な単語を読ませるとかして、よくできたねと褒めてあげます。

 ĺš¸ă„きもうづぎ子は、忍耐力が強くて、どんな所に行っても、例えば、お父様のスピーチの場とか、礼拝に出ても、私たちの側にじっと座って、最初から最後まで、立ち上がったりしません。その忍耐力はすごいです。そういう面では手間が掛からない子供です。ポテトチップの袋を取り出したりして、おやつを自分で食べながら、テレビを見たり、ビデオゲームをするこができます。時々、家に一人で置いておくこともあります。子供は、自分の悩みの対象ではなく、恵みの対象であるという意識に転換できれば、本当に私たちの信仰生活が豊かになっていくと思います。

 「世界最強のお父さん」というビデオをご覧になりましたか。アメリカ人のお父さんと車椅子に乗ったきりの息子の話しです。地元の大学工学部の協力を得て、コンピューターで息子が意見を伝えることが出来るようにしたのです。ある時、彼は走りたいと表現しました。運動にほど遠かったお父さんが、彼を車椅子に乗せて走り始めました。このお父さんはトライアスロンの選手になり、どこに行っても、必ず彼を連れて走るのです。走る時、息子さんは、前に座りながら、風が受けるとうれしそうな顔をしています。そして、自分が障害者であることを忘れてしまうというのです。それからはお父さんの人生は息子と一緒に走ることに全てを捧げることになったのです。子供と一体となることによって、子供に喜びを与えることができるのです。そのビデオを見る度に、私は涙を流します。

 ć„č­˜ăŽčť˘ć›ăŽäž‹ă¨ă—が、神様の愛がどういうものかを私の体験を通して話してみたいと思います。学生時、毎木曜日に、一般の教会での朝祷会に行っていた時に体験したことです。教会の入り口に猫がいて、何か狙っているような姿でした。ちょっと見回しましたら傷ついた小鳥がいました。一撃を食らわされて、翼が痛んでいました。そこで、かわいそうに思って、小鳥を捕まえて手当をしてあげようと思いました。 そして、猫を追いやって、小鳥を教会に入れようとしましたが、小鳥がバタバタしました。逃げてほしくないので、もっと、ぎゅっとつかんで、中に連れて行きました。礼拝が終わった後に、「傷付いているので、世話してください」とその教会の人に頼みました。次の週に行った時に、世話をしてくれた人は、「小鳥は、2、3日後に死んでしまいました」と言いました。とても悲しい思いをしましたが、この体験を通して、ものすごく神様の愛を感じました。どのようにかと言いますと、比喩ですが、その傷ついた小鳥は私なのです。私の両手は神様の手です。私たちは、一生懸命に生きよう、生きようとして、傷つきながら、その神様の愛の手から逃れようとしている。生きるために、絞 め殺されるのじゃないかと逃げるのです。神様の愛の手は、生かすためにもっと強く締めます。それで、そうしなければその小鳥は生きられないわけですね。逃げたらもう死しかない訳です。

 ç§ăŸăĄăŽäżĄäť°ç”Ÿć´ťăŤăŠă„が、私たちは、生きよう、生きようとして、神様の愛から実際は逃れようとしている。私たちは、神様の愛の中に生きているのに、それ が分からないので、そこから逃げようとしている。私たちの与えられた環境は、神様の愛の中のそのものだけれども、そこから抜けることを通して生命を求めて 行く。全く逆の事をしようとしているのです。その愛が分からないのです。神様は一生懸命語りかけているのだけれども、その語りかけているのが分からないのです。ちょうど鳥かごの中の小鳥のように。ペットを飼っている人は、毎日エサを上げます。エサを上げながら話しかけます。元気?ご飯だよ、とか。言葉が返ってくる事は期待していません。「おなか空いた」「今日は気分が悪い」というペットはいません。私たちは意思が通じていると思っています。神様が私たちに一生懸命話しかけて下さるのに、私たちは神様に話しかけられない。この立場とよく似ています。

 ç§ăŸăĄăŽäşşç”ŸăŤăŻ、見方を変えることを通して、神様がどこにでも宿っていることが実感できるのです。修錬会から帰ってきた時、元の環境に戻る訳ですが、自分の中に神様の愛が宿っていれば、見るもの全てが違います。観点を変えるだけで、全てが新しく見えるのです。私の与えられた環境、障害児が生まれてきたということに対して、どう受け止めるかということです。それを悩みの種として受け止めるか、恵みの種として受け 止めるか、それが問題だと思います。アメリカで、障害児を抱えて「この子は、この世の何ものにも変えることができない貴重な存在だ」と証をする親がたくさんいます。障害児から、普通の子からは得られない愛を感じるんですね。神様の立場から言えば、そういう不幸な者であればあるほど、愛の水が一番流れ込みます。惨 めな立場の子供たちに、神様の情が注がれていると思います。情の世界において、そこに神様の愛を見出せるように、そのように観点を変えられたらいいと思います。

 ç§ăŸăĄăŤăŻ、み旨がありますが、私たちの子供は最終的には親が責任をとるしかありません。私がアメリカの統一神学校を卒業した時、日本人の卒業生は日本で活動するように願われていました。しかし、日本に帰ったら、子供の治療ができないと分かっていましたので、最終的には、親が決断をしなければいけないと思い、子供 に対することだけでなく、信仰者として、アメリカに留まりました。

 ç§ăŸăĄăŽä˝żĺ‘˝ăŻ、最終的には理想家庭を築くことにあります。霊界に行った時に、私たちの心情がどれだけ天につながっているか、どれだけ愛の人になったかが問われるのではないかと思います。
 皆さんの中で、普通の学校に行って、普通のことができるのだけれども、しかし、ちょっと欠けている、ちょっと難しいと周りの人から見られるボーダーラインの障害児がいます。ドーマン博士もおっしゃっていましたが、こういう人ほど社会生活するのがに難しいです。社会は普通の人と見てしまうので、普通の応対を予期していますので、ちょっと変なことを言ったりすると異常に見られるからです。身体的に、車いすに乗っているとか、見てすぐ障害児だと分かる人はそのように見られますので、それなりの応対を予期するわけです。ですから普通のように見える(アスペルガー症などの)障害児ほど苦しみます。そういう子供をどうやって導いて行くかが課題です。

 ăżć—¨ă¨éšœĺŽłĺ…ă‚’ćŠąăˆăŸĺŽść—。どうやって調和させていくかということだと思います。私たちには特別な使命があります。自分の子供と親との関係を見せて、神様の愛を証していくのです。親子の姿を見せて、「どうしてここの親は子供をそんなに愛しているのだろう」と、その愛らしい姿を見せて、証して行くことができると思います。私はいつも顕士のために、顕士にしかできない方法で、天を証しすることができますようにと祈っております。他の人がやらないようなことをやる、そのような姿を通して。

 ĺ˝źăŻ、祝福を受けて帰ってきた時、彼の先生に「私には妻がいる」と言い出しました。「え、どうなっているのですか」と、その先生から電話がきました。家内が電話を受けて、私たちの教会は理想家庭を目標にしておりますので、家庭が大切なんです」と答え、原理の説明をしました。そして、先生はそのことを理解しつつ、顯士を教育してきました。全然既成概念が無いので、「I have a wife」と言っても、先生は何の抵抗を感じないんですね。彼独自の伝道の方法があるのだなと感じました。そういう内容を聞きながら、その先生は、自分の結婚式に教え子の中からただ一人、顯士を招待してくれたわけです。

 çš†ă•ă‚“、誰でも親はいつか昇華することになります。こういう子を一体誰が見てくれるのかということが心配になると思います。私も同じです。アメリカにいる親たちも同じです。アメリカでも今回キャンプでそのような話しが出て、グループホームを設立していこうという動きがあります。私たちの理想としては、二世で祝福を受けたカップルや、児童心理学、社会福祉を学んだ人たち、障害者を世話したいという公的な心情を持った祝福家庭が、そのグループホームの責任者になる。ニューヨークかワシントンが今食口の数が多いので、どちらかに一つモデルとして作り、各州にそれを展開していきたいというのが今後の展望です。

 ăă‚Œă‹ă‚‰、アンケートの中に、「社会に役立つ人間になってほしい」というのがありましたが、私は、障害者たちが、自分の姿そのままで、社会に役立つ人間にな れると思います。特別な技能を教えるとかではなく、今できることを習えるのでしたらそれにこしたことはありませんが、自分の姿を見せることを通して、証し人になる、そういう方向で導いていけたらいいと思います。中には教会の責任者の理解をなかなか得られないという意見もありましたが、フルーツバスケットとしても、理解してもらえないというのは、受動態ですので、 自分をコントロールできないのですね。してもらいたいではなく、逆に責任者を感化していけるような姿勢で臨む方がやりやすいと思います。

 ă“ă‚ŒăŻä¸€ă¤ăŽĺ“˛ĺ­Śă§ă‚‚ă‚ă‚Šăžă™ăŒ、「私はある人に腹が立った」「私の心を傷つけた」そういう否定的な心が起こったとします。「された」という姿勢がある限り、絶対その状況は変わりません。それは、「された」のではなく、「させた」のです。自分が傷つくように、自分の情を任せてしまったということです。相手の言うことに対して、傷つけることを許してしまった。そうなれば、自分が主体なのです。自分が主体でやったり、感じたことは、自分がコントロールできます。 他人がやったり、言ったりすることは私たちはコントロールきません。

 ă—かし、私たちが変えられるのは、自分の考え方と行動です。私たちはいろいろなことに対して悩みますが、中にはどうしようもない悩みがあるでしょう。相手が何かを言った時に、それを消化するならば、その人に対して「かわいそうな人だな」「まだ幼いんだなあ」という親の情がわいてくるのです。怒るのではなく、傷つけられたと思うのでもなく、かわいそうだなあという情が湧く人間になれば、自分の人格が高められるのです。